ピアノの鍵盤

ようやくまとまったお金が貯まり、
ずっとやりたかった歯列矯正を始めた。

小さい頃から歯並びがコンプレックスだった。
大きくて形の悪い歯が小さな顎に収まらず色んなところががたがたと飛び出ている私の口のなか。

ピアノの鍵盤のように同じ大きさの白い歯がならんだ口元に心から憧れていた。

大人なのに歯並びが悪いということが、いつも恥ずかしく、みんなが当たり前に学生時代に終わらせている儀礼をこなせていない負い目。

いまからやれば30歳までには終わるんじゃないか、
お金で解決できるコンプレックスなら何とかした方がいいんじゃないか。

なんとか自分を奮い立たせて知り合いが通っている腕がいいと評判の歯医者の扉を叩いた。

精密検査をしてみると歯並びは言わずもがな、歯の生えている方向もひっちゃかめっちゃからしく、
先生から説明を受けている間、直すところがたくさんある身体なんだなとぼんやり考えていた。

まずは親知らずを抜こうと言うことになり、上下合わせて4本抜くことになった。

診察台で寝転んだあとの緊張感、身体の中で鳴るはずのない工業的な音に身体がこわばる。
麻酔が効いているせいで痛みはないのだけれど、確実に触られている変な感覚。
声をあげることは流石になかったけれど、じんわりと涙がこぼれてきて止めようと思っても止まらない。
目元にかけてくれた薄いタオルと顔の間に挟まれた前髪が涙を吸って湿り気を帯びる。
歯医者で泣く、成人女性。
我ながら終わってるなと思った。

先生はそんなこと気にもしないで私の口のなかを作業的にいじる。
ペンチのようなもので捕まれた私の奥歯はまさしくめりめりと音をたてて抜けた。

下の親知らずは、砕きながら抜いたらしい。
見せてもらった血まみれの欠片は細かく砕かれて、踏んでしまったプラスチックの部品のようだった。

「きれいに抜けた方の歯も根っこが曲がっていたせいで抜くのが少し大変でしたね、でももう大丈夫ですよ。抜いた歯は持ち帰りますか?」

先生の説明もぼんやりとしか聞き取れていなかったが、とりあえず抜いた歯はもらってきた。

そのあとも追加で4本抜いたので私の手元には6本の歯がある。
(あんなに抜くのがつらかった奥歯はいつもの調子で部屋のなかでなくしてしまった、多分あると思うけど)

24年は私の身体の一部だったものだ。
見えている部分の倍くらい根っこがあって、こんなものを何本も抜いて私の口のなかは大丈夫なのだろうかと少し不安になった。

抜いた部分はぽっかり穴が開いていて、口のなかに闇が広がっている。ここが徐々に埋まっていくのか。本当に?

私が頑張ったことはひとつもなく、ただ診察台で泣いていただけ、
あとは痛みと拍車がかかった醜さに耐えながら数年を過ごせばいいのだけれど、
よくお金貯めて頑張ったね、痛いのも耐えて偉いね。と自分で自分を誉めてあげたくなってしまった。


普通になりたい。ただそれだけなんだけどな。難しい。