苛立つための権利

「それだと意味がなくて、」

私の上司がよく使う言葉である。
私があまりに程度の低い資料を作るせいで、
彼女は私にそう言わざるを得ないのだ。

そういわせてしまう自分の不備を責めつつも、
ここまで鋭い言葉をわざわざ選択する必要はあるのだろうかといつも思う。

「意味がない」

という言葉の意味を完全に彼女が理解して使っていると私は到底思えないのだ。

特に取り柄がない人間は、文章力を褒められやすい。
という文章をどこかで見たとき、まさしく私はそれなのだと悟った。

何も取り柄がないから、文章力くらいしか褒められない。
そんな私の自尊心が「意味がない」という言葉に削り取られていく。

分かりやすく派手な言葉を使う短絡的な思考。
この強度を持った言葉を使う責任をあなたは負えるのだろうか。
そんなこと考えたこともないのだろう。

私は彼女より絶対に「意味がない」という言葉の意味を理解している。
絶対に。絶対に。

私は絶対に「意味がない」という言葉を人に使ったりしない。

一度彼女に、
「まちなみさんは哲学者にでもなったらどう?そうしたら、訳が分からないことを言っても
誰も迷惑掛からないし笑」

と言われたことがあった。
私はこの言葉を、仕事が出来なさ過ぎて社内で浮いている私を話題の種にしてくれようとする
彼女なりのやさしさだと捉え、そうですか?とおどけて笑った。

その帰り道、ひどく腹が立っている自分に気づいたのだった。
だけど、仕事ができない私が憤る権利は一つだってない。

仕事ができないから社会で生きていく権利がない。
こんなにすべてが遠い。

こんなに回りくどく書き連ねたところで、言いたいことは上司に怒られていらついた、だけなのだから救いようがない。