ユニットバスから

実家のお風呂に浸かりながら、いろんなことを考える。一人部屋のない私にとってお風呂場は唯一個を許される空間でもあった。一人入ったらぱんぱんの小さなバスタブに張られたお湯。髪や体を洗ったあとでまたお湯に浸かりなおす。タイル張りの床はとても冷えるのでバスタブから数杯お湯をこぼして、足が触れるところを暖めておく。
経年劣化で左向きに傾いたシャワーノズルは気持ち右にずらしておく。そうしないとシャワーを浴びている最中にノズルが逆がわに逃げてしまって髪が洗いにくいから。

その一連の流れは経験によってもたらされたもので、この家のルールとも呼べるのかもしれない。

私の部屋はユニットバスのワンルームで、お湯を張ったことは一度もない。
狭いバスタブの内側に入れ込んだシャワーカーテンが、更に可動域を狭める。腕を伸ばすとべたりと張り付くシャワーカーテンのそれが嫌で、できるだけ縮んで体を洗う。
工夫してお湯を張っている人もいるのだろうけれど、私にはちょっとできそうもない。

ユニットバスか風呂トイレ別か。部屋における価値の基準としてそこは非常に大きいものだと思える。

今の生活を続けるとして、住めるところはユニットバスのワンルーム一択だろう。

仕事を辞めたら、それすら諦めなくてはいけなくなる。
でも辞めたい、どうしたらいいんだろうか。実家の風呂には追い焚き機能があるのでいつまでもお湯は温かいままだ。

ずっと同じことを考えている。思考が進んでいかない。

お風呂に浸かりながらいろんなことを考える。その大半が無意味なものだということにも気づいている。
このままお風呂に溶けてしまえればいいのに。
脱衣場に置いた寝間着に着替えることは二度となく、私の存在の全部がなかったことになったらと考える。
泣いているのがばれないようにシャワーを出しっぱなしにする。タイルから跳ね返る水しぶきをぼーっと眺める。ごめんなさいと口にしたところで、私が、この人生が、なかったことになるわけではないのだ。私は間違えた。ゆっくり時間をかけて間違え続けた。その結果がこれなんだろう。
それでも、ごめんなさいしか口にすることができない。風呂場で懺悔する癖も昔から変わっていない。

南向き、独立洗面台、風呂トイレ別で二口コンロの家に住める人生が正しい人生だとするのであれば、私に人生ははやすぎた。
いつまでも冷めないお風呂の中でずっと同じことを考えていた。