積み重ねによる

年末年始は実家に帰ってこたつの定位置に寝転がりながらずっとテレビをみていた。
実家のテレビはわたしの部屋のものより何倍も大きいので、たくさん映るお笑い芸人の顔がはっきり見えた。音も心なしか明瞭な気がする。

わたしの実家には子供部屋がない。小さい頃、自分に与えられた空間は勉強机とその隣の本棚だけだった。弟も同様だったけれど、よく考えたら両親の個人的な空間はどこにもなかった。

各自の部屋が無いから、一部屋に布団を敷き詰めて家族みんなで同じ部屋で寝ていた。そのうち、居間のカーペットに転がりテレビを見ながら寝落ちするのがわたしの公式の就寝方法となった。

それがわたしの実家だった。いいとかわるいとかではない。そういう暮らしが積み重なって今のわたしがあるということだ。

テレビが常についている家だった。いつも見ていたわりに、わたしの興味はドラマや映画には向かわなかった。

テレビと言えば、前職の同期の家に遊びにいったとき、「ボーナスで買い直したんだ」と話してくれたテレビが実家のものより大きくてびっくりしたことがある。あのときはみんなでマリオカートをした気がする。

家に帰ったあとなぜか涙が止まらず、自分でも困ってしまった。
わたしは実家に大きなテレビも買ってあげられないのか。それが悔しかったんだと思う。
テレビの大きさが生活のステータスに紐付くなんて、ずいぶんと貧相な価値観だろう。だとしてもわたしにとってはそうだった。結局、そのあとも実家にテレビは買ってあげられてない。

わたしは家族というひとつの組織の中のひとりだった。各役割や自我はあれども、最後には家族に格納されていく。実家に帰るとそれを再確認する。

こんなご時世だし喪中ということもあって、今年はお正月らしい行事はほとんどしなかった。数人あった親戚に、未来のことをやんわり聞かれたりした。
なんの予定もないよ答えたあとに、まぁまだ若いからねなんて愛想笑いが返ってくる。

今でも、一人暮らしの自室に帰ったら一番始めにテレビをつける。テレビから流れる音を聞いていると安心して、気づいたら眠りについている。