新しい季節の名前
何かと自分に言い訳をして一日数回コンビニに出かける。外に出る理由がコンビニに行く以外にないのだから仕方がない。
今日は、日差しが夏なのに風は冷たくて随分心地のよい日だった。
季節がかっちりはまった完璧な日も好きだけれど、今日みたいなちょっとずれてしまった日のほうが愛嬌があって特別な感じがする。
温かい春の雪の日や、半袖で出かける秋晴れの日、一日というまとまりの中で季節を構成する階層がずれているところがいいのだと思う。
新米の神様がボタンを押し間違えやってしまったと慌てている姿を想像する。おっちょこちょいな神様のせいでやたらとバグが起きて地球は大混乱に陥る。完璧な季節など本当はどこにもない。想像上の完璧な季節が私の中にあるだけだ。
でもきっと、夏は暑いほうがいいし冬は寒いほうがいいのだろう。しかしやりすぎもよくない。すべてはほどほどがよいとされている。誰も想像しなかったようなことはできるだけ起きない方がいいのだ。それは誰かを不幸にするから。
なだらかに移行する季節の隙間、4月の終わりから5月の半ばにかけての季節とも呼べない日々が好きだ。
層が重なり合って日々が作られる。春と夏の間、暑くも寒くもなくどっちつかずでいられる日々は気を付けていないと感じる間もなく過ぎてしまう。こんなに何もかもが止まっているのなら季節もこのまま止まってしまえばいいのにと思う。
私は経験則として春の次に夏が、夏の次に秋が、秋が終われば冬が来ることを知っている。季節は巡り繰り返される。私の認識が正しければ。
新社会人として働く前は、地元のコンビニでバイトをしていた。
コンビニの販促物はいつも季節の訪れより前に届く。11月にはクリスマスケーキの予約を、レジ前のおせちの飾りをみながら、年が明ければ節分のチラシが届く。気づけばもうひな祭りでこどもの日と母の日が迫っており、夏の間におでんや肉まんが売り出されている。
季節に紐づく行事がひとつの空間で渋滞を起こしていると、自分が今どの季節にいるのかよくわからなくなってしまう。
曖昧にしか理解できていないからこそ、季節という区切りをつけて理解したくなるのかもしれない。
私が神様だったらこの限られた特別な日々に名前を付けていたと思う。